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Vilko dantų karoliai 狼の歯の首飾り

リトアニア映画 (1997)

40歳を過ぎた画家タダスが、1946年から1950年初頭にかけての幼少年期を振り返る形式の映画で、リトアニアの作家Leonardas Gutauskasが1990、1994、1997年に分けて発表した同名3部作の第1部を映画化したもの。脚本は監督Algimantas Puipaと原作者の2人によって書かれている。従って、映画の分かりにくさの責任は両者にある。私がよく参考にするVariety誌の評では、冒頭に “arty and arch surrealism” という表現が使われている。この形容詞は「芸術品を気取ったずる賢い」という意味になり、最初からかなり手厳しい。そして、内容を、“rambling autobiographical tale(とりとめのない自伝的物語)” と述べている。それでも、Rouen Nordic Film Festivalという映画祭で審査員賞を獲得している。映画の中には3人のタダスが登場する。リナス・ケイナ(Linas Keina)が演じる8歳前後のタドゥーリ(幼児名)は純真で素直な少年。反スターリン的行動により父がシベリアに送られ、息子を養えなくなった母により田舎で農家を営む祖母と伯父に預けられる。リチャルダス・カヴァリュスカス(Ričardas Kavaliauskas)が演じる12歳くらいのタドゥーリは田舎暮らしの純朴な少年のままだが、14歳くらいになって母と町で同居するようになると、警察の幹部の妾として生きている母の姿を見てひねくれて生意気な性格に変わり、名前もタダスとなる。父が解放されて戻ってきた時、タダスはお土産としてシベリアの先住民サモエード族の狼の歯の首飾りをお守りとして渡される。その代わりにタダスは母の「生き延び方」を父に示唆し、お陰で父は家を出て行く。48歳のタダスは、映画の中で画面と一体化する形で常に姿を見せているが、この時は子供時代の自分を「ユダ」と罵る。映画の最後、少年時代のタドゥーリ/タダスがお世話になった伯父が自殺し、その葬儀の場面を最後に回顧は終わる。原作は下記のサイトで見ることが可能だが、リトアニア語で書かれた原作も難解なことで知られ、今回の紹介には全く役に立たなかった。
http://www.xn--altiniai-4wb.info/files/literatura/LH00/Leonardas_Gutauskas._Vilko_dant%C5%B3_karoliai.LH8800.pdf

概要を書くに予めお断りしておく。今回は、映画の中身を理解せずに書いた始めての紹介となった。あらすじに見苦しい点が多いことをお詫びする。概要では、理解できないことを無理してまとめるのはやめ、全体の表面的な流れを示すに留める。8歳のタドゥーリは父と母と一緒に第2次世界大戦を乗り切ったが、戦争が終結するとスターリン主義の魔の手が父をシベリアに連れ去ってしまう。危険思想を持つ夫の妻ということで、母には働き口がなく、自らは警察の幹部の妾として生き、息子は田舎に住む夫の母に預ける。そのマリア祖母の家には、夫の兄にあたるヨコバス伯父も同居していた。優しい祖母と、釣り好きな伯父に囲まれたタドゥーリの幼年時代は平穏そのものだった。映画はいくつかのエピソードで無垢なタドゥーリを描写する。時は経ち、タドゥーリも年頃の少年となり、村の少女と恋に落ちる。しかし、素直で優しい性格は変わらない。転機となったのは、タドゥーリが丘の上に建っている高い木の塔に登っている時に落下した事件。タドゥーリは生死の境をさまよい、回復してからも、うまく話すことができなくなり、元通りになるのに数年を要したほどだった。町にいた母も看病に駆けつけ、そのまま町に連れて帰る。本来なら夫が解放されてからタドゥーリを引き取るつもりが、早くなってしまったのだが、結果として、この変化がタドゥーリの性格を大きく捻じ曲げることになる。それは、母の淫らな生活ぶりを間近に見たからだ。最初の頃は恥辱の涙にくれていたが、いつしか年上の売春婦と親しく付き合うようになる。名前も大人らしくタダスに変える。タダスは梅毒にかかり、それが母に見つかる。恐らく、それは母にも衝撃で、自らの態度を律するようになる。ある夜、不満分子の塊のようなタダスが、家の前にある肉屋のショーウィンドウを割って肉を盗もうとしたことがバレ、昔から知り合いで最近お呼ばれのなくなった警察の幹部がさっそく仲介と称して母とのヨリを戻そうとする。しかし、母はタダスと一緒にそれに抵抗し、結果としてタダで住まわせてもらっていたアパートを追い出される。その同じ冬、転居先のアパートに夫が6年ぶりに帰ってくる。すべてはハッピーになるはずだった。しかし、父から「お守り」として狼の歯の首飾りをもらったタダスは、母がどんな生活をしていたかを父に話してしまう。妻に失望した父は家を出て、愛人と一緒に暮らすようになる。そんな時、昔お世話になったヨコバス伯父が自殺したとの連絡が入り、タダスと母は田舎に出向く。こうした流れのストーリーを34年後のタダス、聖書や肖像の画家として名をなしたタダスが、回想しながら語るという内容になっている。

8歳のタドゥーリを演じるのはリナス・ケイナ。いくら幼児でも台詞がゆっくりとした棒読みで、可愛いのだが、あまりに下手すぎる。12歳頃の田舎のタドゥーリと、14歳頃の町とタダスを演じるリチャルダス・カヴァリュスカスは、思春期の素朴な少年が、自意識過剰で生意気、過激な性的嗜好をもつ悪ガキに変身するところを上手に演じている。2人について分かることは何もない。


あらすじ

この映画は、冒頭とラストが何度観ても意味不明。その冒頭だが、年代は恐らく1952年〔漠然と書いていると分かりにくいので、主人公の田舎での幼児期を8歳、町での少年期を14歳として年代を確定させる〕。場所はリトアニアの中部の村ヴェプリュー(Veprių)。映画の主人公であるタドゥーリ/タダス〔タドゥーリは、ダスの幼少期の呼称〕が8~14歳の間暮らした場所。映っている場所は、村のカトリック教会の遺体安置所。そこには舟型の台がある。台の上には、足を向かい合わせにして2人が横になっている。左はヨコバス伯父、右は48歳のタダス(T3〔タダスは1938年生まれ/回想は1946年から40年後〕。そこに、14歳のタダス(T2)を先頭に、ヴィリニュス〔首都〕の悪ガキ連が一列になって入ってくる。タダス(T2)は伯父の胸の上に置いてあった木製のウキ〔伯父は大の釣り好き〕を手に取ると、それをタダス(T3)の胸に置き、手を胸に当てる(1枚目の写真)。その後、仲間の4人がタダス(T3)の顔を順に見て安置所から出て行く〔映画の最終盤でヨコバス伯父は自殺する。恐らくその際の葬儀をイメージした映像であろう。だから、その時代のタダス(T2)が仲間を連れて町からお別れに来たとしても不思議ではない。しかし、そこになぜ、1986年の時点でのタダス(T3)が横たわっているのであろう? タダス(T3)の回想だとしても、なぜタダス(T2)が、存在しない人物(T3)にウキを渡すのか全く理解できない〕。オープニング・クレジットが流れる中、題名が示されると、埋葬の列が野道を進んでいくのが映される。先頭を神父が歩き、次が伯父の遺体を乗せた簡単な馬車、そして10名ほどの参列者。正面には大きな木の塔。てっぺんには死の象徴の黒く長い布〔20mほどはある〕が風になびいている。空は、この映画の特徴であるオレンジがかった色だ。ここまでがイントロ。映画が始まると、時代は一気に1986年に飛ぶ。場所はヴィリニュスにあるタダス(T3)の家。居間のドアが開き、どやどやと一群の人が入って来る。彼らはタダスの礼賛者で、贈り物を渡したり、絵の依頼をする。5人目の男(2枚目の写真)は、持参した写真をもとに妻の絵を描いてくれと頼む。その時、タダス(T3)がドアを見ると、懐かしい思い出〔1946年〕がよぎる。母が、「タドゥーリ、行くわよ。急がないと、お祖母ちゃんが待ってるわ」と呼びかけ、8歳のタドゥーリ(T1)が抱き付く(3枚目の写真、矢印)〔室内が同じことから、タダス(T3)は、父が母と結婚した当時の家に住んでいる〕。映画は、ここから、1946年に戻り〔原作に記載〕、8歳のタドゥーリの田舎での生活を描いていく。タドゥーリ/タダスの区別が分かりくいので、8歳のタドゥーリをT1、12~14歳のタドゥーリ/タダスをT2、48歳のタダスをT3と明記する。
  
  
  

ヴィリニュスの街角で、父が秘密警察に呼び止められ、タドゥーリ(T1)の目の前で 車に連行される。父は、反スターリン主義者の烙印を押され、シベリアの強制収容所に送られる。母は、反逆者の妻ということで、まともな職には就けず、警察の幹部の「慰み者」として、アパートを与えられる〔幹部とダンスするというシンボリックなシーンで、母の生き方を示唆している〕。ある日、タドゥーリ(T1)は、「こわい夢、見たよ」と言って母に抱きつく(1枚目の写真)。母は、これ以上「おぞましい」環境で息子を育てることは無理だと判断し、田舎に住んでいる夫の母に預けることにする。母とタドゥーリ(T1)は、歩いて祖母の家に向かう〔ヴェプリュー村はヴィリニュスの北西70キロにある〕。2人の背後には、大きな木の塔が映っている(2枚目の写真)。オレンジがかった空の色が特徴的だ。2人は祖母の家に入って行く。連絡がしていなかったとみえ、祖母は驚くが、温かく2人を迎える。「まあ、大きくなって、巨人みたい」。「しばらく預かってもらおうと、連れて来ました」。「いいわよ、喜んで」。「町では食べさせていけません」。「そうでしょうとも」。「シモナス〔夫〕のことで、仕事がなくて」。「分かってますよ。よく来たわね」。祖母はタドゥーリ(T1)の肩を抱いて、頬にキスする。そして、「心配しないでね、タドゥーリ。おばあちゃんが守ってあげるわ」と優しく声をかける(3枚目の写真)。母はすぐに帰って行く。靴を傷めないよう、裸足になって歩いて行くところが印象的。
  
  
  

次のシーンでは、タドゥーリ(T1)が、山羊の世話をする祖母の脇を走って納屋に行き、立てかけてあった長い梯子を登る〔12段〕。彼が高い所に登るのが好きなことを示している〔伏線〕。ある日の深夜、伯父のヨコバス〔長男/タドゥーリの父シモナスは四男〕がタドゥーリ(T1)を起こし、「釣りに行くぞ」と言う〔伯父は釣りが大好きで、毎日のように出かけている〕。2人はボートに乗って釣りをするが、まだ暗いので、木のボートの上で火を焚いている〔鵜飼を連想させる〕。明るくなってから戻った2人。納屋の前で、伯父は神父の家族に渡す魚のことで、タドゥーリ(T1)に「言い方」を復唱させる。「神父様。ヨコバスは、助祭様と家政婦にお届けします」。伯父は、言葉の中に「魚」が入っていないと注意し、「神父様。ヨコバスは、助祭様と家政婦に魚をお届けします」とくり返すよう求めるが、タドゥーリ(T1)は、途中で練習すると断って出かける(2枚目の写真、背後に梯子が映っている)。確かに、教会への階段の途中では伯父の指導通りに練習できたが、いざ教会の中に入って神父に初めて会うと、「神父様。ヨコバス伯父さんは家政婦にお届けします… 神父様… 魚1匹と鰻2匹です」と間違える。最初、神父は、「坊や、そんな些細なことで煩わすんじゃない。直接 家政婦に渡しなさい」と言うが、タドゥーリ(T1)が同じ内容をくり返そうとするので、小さい子向けに、伯父さんに感謝し、水曜に教会に来るように伝えてくれと頼み、最後にキャンディーを与える。「神父様、ありがとう。ちゃんと伝えます。酔っ払っていなければ、ちゃんと来ます」。神父は、魚を家政婦に渡して暗くなる前に帰るよう優しく言う(2枚目の写真)。次のシーンでは、老齢の神父の前にタダス(T3)がひざまずき、「私は、ヨコバス伯父の魚を届けに来たタドゥーリです」と話しかける。「あなたは、私にキャンディーを下すった」。先ほどから34年が経っている。タダス(T3)は神父に対し、宗教画を描き、その見返りに大金をもらってきたことは罪深いと懺悔をする。それに対し、神父は ダ・ヴィンチを引き合いに出し、罪はないと告げる。神父の手に接吻をしたタダス(T3)が礼拝所に目を向けると、そこには、ひざまずいて祈るタドゥーリ(T1)と祖母の姿がある。タドゥーリ(T1)は祖母の祈りの言葉を復唱している。タダス(T3)は、そっと手を伸ばして懐かしい祖母の肩に触れる。3枚目の写真は、祈りの最後の「アーメン」の部分。
  
  
  

伯父が網の補修をしている横で、タドゥーリ(T1)が祖母に頭が痒いと訴える。祖母は、タドゥーリ(T1)の頭をテーブルの上に突き出させ、髪の毛を櫛で梳きながらシラミを落とそうとするが、なかなか見つからない。1匹もないと宣言した時、タドゥーリ(T1)はテーブルの上に1匹落ちているのを見つけて潰す(1枚目の写真)。祖母は、きれいになったタドゥーリ(T1)の頭をテーブルの上に横にならせると、歌いながら優しく髪を撫でる。次のシーンでは、朝、起きたタドゥーリ(T1)が祖母に夢の話をする。「おばあちゃんは天国にいて、雲に座ってミシンで黒いドレスを縫ってた。『どうして?』って僕が訊くと、これを着ると誰にも姿が見えなくなるって。『僕にも?』って訊くと、おばあちゃんの真珠のロザリオを使えば話せるって。僕、ロザリオを取ろうとうんとかがんだら、雲から落ちて、目が覚めちゃった」(2枚目の写真)〔祖母がミシンで黒い布を縫うというイメージは、映画の最後でタダス(T3)が口にする最後の台詞〕。祖母は、「それは 天使が見させた夢よ」とタドゥーリ(T1)を褒める。次のシーンでは、友達のカストゥーリが「釣りに行こうよ」と呼んでいる。タドゥーリ(T1)は、「行けないよ。山羊の世話するから」と断る。タダス(T3)が、「カストゥーリ… 40年前に雷に撃たれて死んだ」と呟く。そして、「あの時一緒に行っていたら、岩の上には登らせなかったのに」と悔やむ〔岩の上で落雷に遭った〕。次のシーンは、タドゥーリ(T1)のお気に入りのカシの木の又になった部分。そこの落ち葉のベッドが彼のツリー・ハウス。しかし、その日に限って、そこは既に死んだ人間によって占拠されていた。その男は、自分の姿は、心の純粋な人間にしか見えないと伝える(3枚目の写真)。このシーンが何を意味するのかは分からない。
  
  
  

プランチスコ伯父夫妻が、祖母とヨコバス伯父の歓待を受けている。妻から、「ネズミのこと、話したら?」と言われたプランチスコは、タドゥーリ(T1)を見て、「子供には聞かせたくない」と言う。しかし、タドゥーリ(T1)は、「プランチスコ伯父さん、僕はネズミも熊も怖くなんかないよ」と答える(1枚目の写真)。そこで、プランチスコはネズミの話を始める。犬のように大きくて、豚のように太ったネズミが、如何に我が物顔に出没していたか。そして、それを殺すには、オーブンに放り込んで焼き殺すしかなったと(2枚目の写真、矢印はタドゥーリ)。その間、プランチスコはずっと咳いている〔片肺しかない〕。死期が近いと悟ったヨコバスは、作業部屋に行って棺を作り始める〔シンボリックなシーン〕。棺が完成すると墓地での埋葬シーンに替わる。妻は、棺にすがり、「片肺しかないのに、あんなにネズミの話をするから」と悔やむ(3枚目の写真)。タドゥーリ(T1)が墓穴の中を覗くと、中にネズミがいる。「おばあちゃん、見て、ネズミ!」。そして、屈みすぎてそのまま墓穴に落ちてしまう〔結構深い〕。助けようとした助祭が 端に寄りすぎて落ち、その手を引こうとした女性も落ちる。結局は、3人とも無事に救出されるが、とんだ椿事だ。リナス・ケイナ演じる8歳のタドゥーリ(T1)の出演シーンはここで終わる。
  
  
  

教会の遺体安置所の舟型の台の真ん中に、12歳になったタドゥーリ(T2)が座って聖歌を歌っている(1枚目の写真、手に持っているのは、映画の冒頭に出てきた「木製のウキ」)。その時、母の声が聞こえる。「タドゥーリ坊や」。「ママ? 僕を迎えに来たの?」。「まだ、その時じゃないの。もう少し、ヨコバス伯父さんとおばあちゃんと一緒にいてね。お父さんが帰るまで待たないと」。「ママは、待ってるの?」。これは、タドゥーリ(T2)の夢。次のシーンでは、ベッドで寝ているタドゥーリ(T2)に、祖母が「目を覚まして」と声をかけている。ヨコバス伯父に上半身を起こされたタドゥーリ(T2)に、祖母は、「温かいミルクを飲めば、気分が良くなるわ」と言ってコップを渡す(2枚目の写真)。「おばあちゃん、僕、山羊のミルクは嫌いなんだ」。「いいから、飲んで」。すると、回想中のタダス(T3)が手を伸ばしコップのミルクを飲み干して、タドゥーリ(T2)の手に戻してやる(3枚目の写真、矢印はタダス(T3)に握られた空のコップ)〔回想中の思い出なので、本人の意思でどのようにでも変えられる、というのがこの映画のスタンス〕。それを見た祖母は、「ちゃんと飲めたわね」と褒める。
  
  
  

タドゥーリ(T2)が村の少女と一緒に木の荷車を牽いている。タドゥーリ(T2)が向かったのは骨の埋まっている場所。大きな動物の頭の骨を掘り出し、少女に見せる(1枚目の写真)。少女は、近くにあった小さな骨を手にとって、「これ天使みたい」とタドゥーリ(T2)に見せる(2枚目の写真)。2人は荷車に骨を入れて山に住んでいるユダヤ人の故買屋に持って行く。故買屋は8キロだから4ルーブルと値を付ける(3枚目の写真)〔現在の約2500円/1950年3月1日に1米ドル(360円)=4ルーブルに固定〕。タドゥーリ(T2)はOKする。「そのお金で何を買うんだ?」。「宝石箱をくれるって」。約束を思い出した故買屋は、タドゥーリ(T2)を家の中に連れて行き、特別な貴重品だと言ってオルゴールを渡す。タドゥーリ(T2)は、後からもっと骨を持ってくると約束する。
  
  
  

納屋の中で、タドゥーリ(T2)が少女にオルゴールをプレゼントする。少女は、タドゥーリ(T2)の頬にありがとうのキスをし、「あなたの髪、せっけんの匂いがするわ」と褒める。タドゥーリ(T2)は少女の髪を優しく撫ぜる。そして、服のボタンを外し、肩をはだけさせると(1枚目の写真)、肩に口づけをする(2枚目の写真)。回想中のタダス(T3)は、絵筆でその光景をキャンバスに描いている(3枚目の写真)。
  
  
  

ヨコバス伯父が、シモナスから届いた手紙をたどたどしく読んでいる。「みなさん、1年目は大変でしたが、今ではすっかり慣れました… 母は元気ですか? 次回には、もっと書きます。あなたの父、弟、息子、シモナス」。1年目について触れているので、伯父に出した初めての手紙だろう。「父」とも書いているので、息子が田舎に預けられていることは妻の手紙で知ったことになる。タドゥーリ(T2)は、伯父の手から手紙をひったくると、祖母に見せ、「おばあちゃん、他には何も書いてないの?」と尋ねる(1枚目の写真)。自分に対する言及がなかったからだ。祖母は、「次には お前に書いてくれるわよ」と慰める。次のシーンは再び納屋。最初のキスから時間が経ったのだろうか? タドゥーリ(T2)は、少女の胸に何度もキスし、少女はそんなタドゥーリ(T2)の頭を撫で続けている(2・3枚目の写真)。
  
  
  

ヨコバス伯父が数年前に死亡したプランチスコ伯父の未亡人にキスしている。未亡人は、「こんなこと良くないわ」と言いつつ、嫌ではなさそう。「子供が起きてるわ」。伯父は、タドゥーリ(T2)に寄って行くと、「釣りに行こう」と声をかける。釣りに出かけたタドゥーリ(T2)は、父からの手紙を読んでいる。たどたどしいが、自分で読めるので、先のシーンからかなり時間が経過している。「息子よ、レナ川は、わが国の川を10個まとめたくらい大きい。ここでは、ヴンス伯父と一緒だ…」〔レナ川は朝鮮半島と同じくらいの経度にあるシベリアの大河〕。タドゥーリ(T2)は手紙を読み終わると、山羊を捜しにでかけ、大きな木の塔の真下にいるのを見つける。タドゥーリ(T2)は梯子を登り始め、一番上まで行った当たりで 仰向けに落ちる(1枚目の写真)。その先は、タドゥーリ(T2)の幻覚。母が天井に向かって 「タドゥーリ」と手を伸ばす。そして、「いらっしゃい」と手招きする。カメラが天井を仰いだアングルに替わると、タドゥーリ(T2)は天井に張り付いている〔生死の境にいることを表現している?〕。タドゥーリ(T2)は、下にいる母に向かって手を伸ばす。画面は、病院のベッドで寝ているタドゥーリ(T2)に替わる。今度は現実だ。タドゥーリ(T2)は、「おばあ…ちゃん…僕…夢…見たよ」とやっとの思いで口に出す(2枚目の写真)。頭を打ったことによる突発的な言語障害だ。祖母は、「後でお話しましょうね」と言い、次いで母が、「坊や、お願い死なないで」、伯父は、「明日、釣りに行こうな」と声をかける。その後、もう一度 タドゥーリ(T2)が天井に張り付き、母が必死に医者を呼ぶので、症状が再び悪化したのだろう。次のシーンで、タドゥーリ(T2)は母と一緒に大きな川を上る(あるいは下る)船に乗っている(3枚目の写真)。このシーンが現実なのか夢なのかはよく分からない。現実である可能性は、次のシーンでタドゥーリ(T2)は母の住むヴィリニュスにいるから。夢である可能性はリトアニアにはこんな大きな川はないから。
  
  
  

ここから、舞台は母の住むヴィリニュスに変わる。転校した学校で、タドゥーリ(T2)がリトアニアの詩人Maironisの詩を暗唱させられている(1枚目の写真)。あまりの不出来に教師は途中であきらめ、「明日は書き取りをやってみましょう」と言って席に戻す。しかし、途中で悪ガキの出した足につまづいて転倒。ケンカとなり2人とも退室させられる。学校が終り、母のアパートに帰ると、ドアには鍵がかかり、中からは男女の笑い声がする。母は、「タダスなの? 外で遊んどいで」と邪険に追い払う(2枚目の写真)。隣のおばさんが出てきて、「タドゥーリ、また入れてもらえないのかい。心配しなくても、私の部屋で寝ていいんだよ」と親切に言ってくれる。タドゥーリ(T2)は、「結構です。ここで待ってます」と断る。部屋の中では淫らな行為が始まる。タドゥーリ(T2)は、桟橋まで逃げて行き、下に潜って泣く(3枚目の写真)〔海のように見えるので、彼のいるのはヴィリニュスではなく、リトアニア唯一の海沿いの町クライペダ(Klaipėda)かもしれない/それとも、象徴的なシーンか?〕。こうしたことが続き、タドゥーリ(T2)の心は荒(すさ)んでいき、名前も自らタダスを名乗るようになる。
  
  
  

タダス(T2)が、野原に捨ててある廃車に乗って、運転する真似をしていると、そこに年上のあばずれヴァンデチカがやって来る。「座れよ。一緒に乗ろう」。タダス(T2)は、ヴァンデチカが吸っていたタバコから火をもらう(1枚目の写真)。そしてお札を渡すと、ヴァンデチカはそれをオーバーニー〔膝までのストッキング〕に挟む。そして、タダス(T2)が咥えていたタバコを投げ捨てると、体ごと抱き上げて自分の体に乗せてキスする(2枚目の写真、矢印はお札)。しばらく行為を続けると、お金が足りなかったのか、タダス(T2)は押しのけられて車から転落する(3枚目の写真)。お尻が丸出しなので性行為をしていたことになるが、タドゥーリ(T2)時代の田舎の村での少女との純愛と違い、何と堕落したことか。
  
  
  

ここで初めてタダス(T2)の「仲間」が出てくる。年上の3人と、同年輩の眼鏡の1人だ。仲間は、売春宿のドアの鍵穴から中を覗いている。タダス(T2)は仕切っている青年から火を分けてもらうと、「ヴァンデチカはどこ?」と尋ねる。「欲しいのか?」。「欲しい」(1枚目の写真)。「分かった」。操車場に、タダス(T2)とヴァンデチカと仲間4人がいる。線路の上に置かれた木の台車にはヴァンデチカが乗っている。タダス(T2)は「叫べる?」と訊き(2枚目の写真)、ヴァンデチカが悲鳴を上げると、OKと言って脇の3人と一緒にさせる。最後に残った眼鏡には詩の暗唱をさせ、OKと言い全員がタダス(T2)の脇に並ぶ。タダス(T2)は、バザールで素人芝居をするつもりで、5人はその出演者。今日の午後6時に始めるからと言い、4人は貼るべきポスターを見せられる。そして、ヴァンデチカをその場に残し、あとは その場で解散。タダス(T2)とヴァンデチカは機関車に入り込み、今度は途中で止めない(3枚目の写真)。
  
  
  

バザールでの「劇」は、ヴァンデチカが首を切られそうになってテントの中で悲鳴を上げ、タダス(T2)が首から上のハリボテをテントから出して見せ、最後に挨拶してテントの中に倒れ込むと火事が起きるという仕組み。テントが燃えて、辺りは騒然とする〔聴衆は 中にいた子供たちが燃えたと思い込む/6人は裏口から逃げて無事〕。次のシーンでは、肉屋の前に長い行列ができ、タダス(T2)は 壁のショーウィンドウのガラスに触ってみる。そこに、同年代の少年が来て、タダス(T2)とケンカになり、母が止めに入る〔肉屋は母のアパートの目の前にある〕。タダス(T2)は家に入るが、組み敷かれていた少年は、腹いせに、母に向かって「タダスは梅毒だぞ」と言って去って行く。タダスはさっそく医者に連れて行かれる。結果は陽性。年輩の女医は、この町で梅毒が如何に流行っている(「フランス風邪」と呼ばれている)かを母に説明し、薬を飲めば簡単に治ると告げる(1枚目の写真)〔1943 年にマホニーらがペニシリンによる治療に成功〕。タダス(T2)はアパートに戻ってふて寝。母が戻ってきて布団をめくるが無言(2枚目の写真)。夜になり、タダス(T2)は、窓から見える肉屋のショーウィンドウに怒りをぶつける。回想のタダス(T3)が放った石が、タダス(T2)の足元に転がる。タダス(T2)は、それを拾うと、ショーウィンドウにぶつけ、中に置いてあった七面鳥のモモ肉を手に取る(3枚目の写真)。通行人が大声で叫び、タダス(T2)は、駆けつけた警官に取り押さえられる。
  
  
  

翌日〔時計は午後4時35分を指している〕、アパートに、顔見知りの警察幹部がやって来る(1枚目の写真)。母は、いつもは良い子だから許してやってと言い、内々に済ましたいと願う。幹部は、目撃者がいるから困難だと敷居を上げる。母:「おすがりします」。「もちろん、できんことはないが、目撃者が問題だ」。「どうか、お座りになって」。母は酒を出す。「逮捕は免れん。調書を取って、しかるべき所に送らんといかん。それに、肉屋に賠償する必要もある」。ここで母は、「タダス、パンを買ってきて」と声をかける。タダス(T2):「あるじゃないか」(2枚目の写真)。「ないと言ったら、ないのよ」。幹部も、「買いに行け」とタダス(T2)に命じる。「1時間したら帰って来い」。タダス(T2)はふて腐れて出て行く。2人だけになると、母は、窮状を訴え、幹部は部屋に住まわせてやっているのだからと、恩着せがましく迫る。これを機会に よりを戻したかったのであろう。
  
  
  

恐らく翌日〔服装が違うので、母と警察幹部にパンを買いにやらされた夕方ではない〕、タダス(T2)は河岸の人ごみの中で、ガリンカという少し年上の女性にシャボン玉を教えている。しばらくすると、彼女の彼氏が来てガリンカはいなくなる。そして、その日の夜になり、アパートに帰ったタダス(T2)は、下着姿の母に足を洗ってもらっている(1枚目の写真)。そこに一杯機嫌の警察幹部が入って来て、タダス(T2)を追い出す。幹部の目的は明らかだ。幹部は母にいきなりキスするが、母は、そんな幹部をドアまで跳ね返す。その物音で、タダス(T2)がドアを開けて覗く。そして、母を無理矢理ベッドに放り投げた幹部に向かって、「ママを離せ!」と突進する。逃げ出した母は、足を洗ったタライの水を幹部に浴びせる。怒った幹部は、「ここから出て行け!」と命じる(2枚目の写真)。それでも、「ただで置いてやったのに」と涙を拭うので、別れるのは悔しかったのかも。次のシーンでは、1頭の馬に牽かせた簡単な荷車に家財を山盛りに載せ、その後ろを歩いて付いて行く母子の姿が映る(3枚目の写真)。こうして2人は「囲われの身」のアパートを離れ、新天地に向かった〔同じ市内の別のアパート〕
  
  
  

転居先のアパートで、クリスマス・ツリーの飾りの入った箱を開けてみると、バラバラに壊れている。タダス(T2)は、「僕が手で運べばよかった」と悲しがる(1枚目の写真)。母は、三角に折った紙を、これで十分とばかりにツリーにあてがい、それを見たタダス(T2)の頬が緩む(2枚目の写真)。その後は、2人で仲良く、ツリーにしゃぼん玉をかける(3枚目の写真)。タダス(T3)が絵を描きながら、しゃぼん玉を手で受けるシーンが挿入される。2人にとって、短いが平和なひと時。
  
  
  

それから間もなく〔街路に同じくらい雪が残っている〕、突然、父が帰ってくる。それは、ちょうど、夜、母がタライで頭髪を洗っている最中だった〔前のアパートでもタライが使われていた→両方のアパートとも、シャワー室がないことを意味している〕。父は、驚かせようとノックなしで部屋に入って来ると、「サリューテ(Салюте)」と声をかける〔これはロシア語。英語のSaluteには「挨拶する」という意味しかないが、フランス語のSalutには「今日は」の意味もあり、似ている〕。母は、びっくり。「ああ神様、シモナスなのね!」。父は、予定より早く解放されたと言い、6年ぶりの再会に2人はひしと抱き合う(1枚目の写真)。ベッドで寝ていたタダス(T2)の目が覚める。「タドゥーリには、私が分からないかもな。あの子も大きくなったろう」。「あの子を養えなかったから、田舎のお母様に預けたの。山羊のミルクとか魚の方が子供にいいでしょ。木の塔から落ちちゃったけど。話せなくなって… 今では、何ともないわ。少しドモるだけ」。その話をタダス(T3)が真剣な顔で聞いている。タダス(T2)は、それが父の声だと分からなかった。アパートを移っても、母がまた男を入れたのかと勘違いし、斧を持って母の寝室に入って行く。父は斧を取り上げ、タダス(T2)をベッドに運ぶ。タダス(T2)は、ベッドに寝かせられながら、「ずっと待ってたんだよ、パパ」と話しかける。「だから、木の塔から落ちたんだ」。父は、「私は帰って来た。もう心配することは何もないぞ」と優しく顔を撫でる。そして、シベリアのお土産だと言って、サモエード族の女性が身につけている狼の歯の首飾りを渡す。「男も身につけるんだ。サモエード族は、首飾りが不幸や死から守ってくれると信じてる。タドゥーリ、お前も守ってくれる」(2枚目の写真)。このタイミングで、タダス(T2)は、最悪のことを言ってしまう。「母さんのとこに来ていた役人が僕に言ったんだ。『もし誰かに話したら、殺してやる』って」。父は、それ以上話さないよう、タダス(T2)の口を押さえる(3枚目の写真)。父は、自分がいない間の妻の所業を100%理解した。ここでタダス(T3)の苦々しい顔が映る。「ユダめ!」。しかし、いくら過去の自分を責めても、一度口にしてしまったことは、とり返しがつかない。
  
  
  

ある日、食堂で。父が、酒を飲みながら、タダス(T2)にシベリアの話をしている。あまりにたくさん飲むので、タダス(T2)は、「パパ、もう十分飲んだから、家に帰ろうよ」と声をかける。父の返事は意外なものだった。「お前だけ帰れ」。「ちゃんと帰る?」。「いつか。そのうちな」。そして、財布を渡し、「母さんの世話をしろ」と言う(1枚目の写真)。ここから象徴的なシーンに替わる。音楽が始まり若い女性が踊りながら父に寄ってくると、父は一緒に踊り出す(2枚目の写真)。これは、かつて父がシベリア送りになった時、母が警察の幹部と踊り出したシーンとそっくりだ。つまり、タダス(T2)の目の前で踊り始めたわけではないが、父が妻に幻滅して他の女性のもとに走ったことを現している。父は踊りながら、「タドゥーリ、家に帰れ。母さんの世話をしろ」とくり返して、女性と一緒に店を出て行く。タダス(T2)の隣のテーブルに座っていたタダス(T3)は、自分の飲みかけのビールのコップをタダス(T2)のテーブルに置く(3枚目の矢印、矢印はビールの半分入ったコップ)。タダス(T2)はビールを一気に飲み干す。タダス(T3)は、過去の自分のしたことを 今さらながら悔やむ。
  
  
  

映画のラストは非常に分かりにくい。まず、ヨコバス伯父が首を吊って自殺を図る。タダス(T3)にそれを伝えるのはプランチスコ伯父の未亡人。その後、ヨコバス伯父と親しくなった女性だ。村の教会の遺体安置所にある舟型の台には、向かって右側にヨコバス伯父の遺体が置かれている。次のシーンで、ヨコバス伯父の遺体の脇を通って知人が最後の別れを告げる。最初に通ったのはタダス(T2)の母、2番目がタダス(T2)本人。タダス(T2)は、木製のウキをタダス(T3)に渡す(1枚目の写真、矢印)。このことから、ヨコバス伯父が自殺したのは、タダス(T2)の時代で、このシーンもタダス(T3)の回顧だと分かる。しかし、なぜ木製のウキをもらうのかは分からない。タダス(T3)は、もらった木製のウキをタダス(T2)の胸に置く〔冒頭のシーンのヨコバス伯父の状態〕。その時、風が吹いてきて、タダス(T3)が天を見上げると、木の塔の上で祖母がミシンの前に座り、かつてタドゥーリ(T1)が夢で見たように黒い布を縫っている。その黒い布は、塔から長くたなびいている(2枚目の写真)。ヨコバス伯父の脇にひざまずいたタダス(T3)は、祖母に、「おばあちゃん、僕を天国に連れて行って下さい。もし、それに値するなら。アーメン」と願う。これが映画で最後の台詞。黒い布がタダス(T3)に触れると、画面にタドゥーリ(T1)が現れ、その背後で父と母が踊り始める。2人の服装はタダス(T2)の時代のもの。ダンスをするという表現は、この映画では2人が「愛し合う」ことを意味するので、これは父母が仲良くなることを暗示しているのだろう(3枚目の写真)。
  
  
  

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